1・福田英子顕彰碑の移設運動について
慶応元年に生まれた福田英子は明治維新の変革の時代、その後の政治経済社会制度、特に女性の地位が低く差別され
労働者、農民等の社会生活の貧困と無権利社会の矛盾を自ら体得し、どうすれば人間としての生きる権利、自由、経済的な自立し得る社会はどうあるべきか、この時代に女性の開放、人権尊重、社会進歩を主張し、政治的弾圧や迫害に屈することなく行動しました。
岡山県民の誇りとして女性解放運動の先駆者を後世に伝えるため、今から40年前1966年に発起人170人により、県消費を建立する運動が起こりました。当時戦災復興区画整理事業が未着手だったため生誕地野田屋町にという、発起人たちの希望はかなえられず笠井山山頂に建立となりました。
戦後60年の今年、ふたたび福田英子を生誕地にもどしてあげようとの声がたかまりました。40年前中心的にがんばった方の遺言ということもあり、昨年の10月、40年前の発起人の生存者を中心に「福田英子顕彰碑を生誕地に移設する会」が発足、萩原市長や当時の市議会議長を顧問に募金運動もひろまり、市から野田屋町公園の一角に建立できる許可がおり、今年6月戦後60年、生誕140周年の記念すべき年に生誕地野田屋町公園に、笠井山かた顕彰碑を移設することができました。写真は6月19日に行われた除幕式での様子です。
2・福田英子について
福田英子は1865年(慶応元年10月5日)景山確・うめの三女として岡山市野田屋町に会った下級武士の刑部屋敷で生まれました。父・確は明治維新後は巡査となり、母のうめは、私塾を開いて生活をたてていました。
英子は明治12年岡山研知小学校を卒業し15歳で助教となり、英子の友達からジャンヌ・ダルクの訳書をかりて読み自由民権の理想を画くようになりました。
また、明治15年、岸田俊子らの岡山での政談演説会を聞いて感激し「岡山女子懇談会」を組織して自由民権運動に入りました。女性の精神と経済的な自立のためには学校教育の重要性を認識していた英子は私塾「蒸紅学舎」も開きました。
しかし自由民権の気炎を吐く英子を強くマークしていた高崎県令(県知事)から、旭川の河原で行われた納涼大会に参加したことで目をつけられ「蒸紅学舎」の閉鎖が命令されました。
英子は明治17年10月に岡山市内から人力車で旭川沿いの沿道を三幡港まで行き新天地での活動を思い蒸気汽船で神戸をへて板垣退助ら自由民権運動の活動家らの援助で東京に出ました。
新栄女学校に入学し勉強しました。
1885年10月朝鮮独立運動を支援するために、爆弾運搬事件にかかわり63人のうちの紅一点、逮捕・投獄されました。
こどもをつれた女こじきが残飯をあさる生き様や監獄での女囚のあわれな身の上話や免罪などを聞き女性のおかれた差別の
実態を肌身に感じました。そのご明治憲法発布の大恩赦により釈放。
1893年(明治26年)福田友作と結婚、福田姓に。その7年後に友作36歳で死去、短い結婚生活もおわりました。
その後も明治政府のもと、足尾銅山事件で被害にあった農民の救済活動や1905年明治38年、平民社の女性を中心に政府に治安警察法の改正をもとめ女性の政治上の自由を求める請願書提出。
1906年(明治39年)堺為子らと社会主義同士会を発足。
1907年(明治40年)「世界婦人」弟一号を刊行。発刊の辞で福田英子は
「従来の法律、習慣、道徳はすべて婦人を奴隷化してその天職を破壊し没却するものでありこれら一切の束縛を排除して婦人の一切の束縛を排除して夫人の絶対的解放を成就」することを目的に発刊したことを書いています。
男女の基本的平等とそれを基礎にする「愛」による結婚、家族制度の廃止、土地・資本の共有という根本問題を解決することなしに婦人問題の解決はないという主張に到達している雑誌でした。
そのため度重なる発行禁止処分や罰金にも屈せず、治安警察法の改正運動の先頭にたって闘いをひろげています。
その頃平塚雷鳥による「青鞜」が発刊、その第3号で福田英子は
「婦人問題の解決」は「婦人だけでなくもちろんすべての人々が人間としての自由を獲得することであり徹底した共産制がおこなわれないうちは充分な開放はない」と主張しました。
その後も3人のこどもをかかえ、呉服小間物の行商をしながら生活と運動を両立をしていましたがその生活は苦しく厳しいものだったとおもわれます。
1927年(昭和2年)享年63歳で市川房枝さんなど200年に見送られ死去しました。
自伝「妾(わらわ)の半生涯」(明治37年刊)の序文で
「妾(わらわ)の過ぎ来しかたは蹉跌の上の蹉跌なりきされど妾はなお戦わん、妾が血管に血の流れるかぎりは、未来においても戦わん、妾の天職は戦いにあり、人道の罪悪を自覚すればこそ、回顧の苦闘、苦闘の昔も懐かしくおもう。妾の苦闘、懺悔を癒す道はただ苦闘にあり先に政権の独占に抗して自由民権の叫びに狂せし妾も今は大資本の独占に抗して不幸なる貧者の救済のために傾くなり・・・新たに世と己とに対して妾の戦いを宣言するためなり」
と自らの半生涯を総括し今後の戦いを宣言しています。
これこそ英子の社会主義宣言であるといわれています。
そしてこの自伝の最後では
「進みます、妾に資と才がなくとも退きません。人のとるべき道はただひとつ、誠を尽くして天命をまつのみ」
と締めくくっています。
3・竹永より
こういう生き方をされたかたが郷土岡山の出身であることに誇りをもちました。
いま、こういう時代だからこそ、彼女のひたむきな人間愛、人間解放、女性解放の思想を丁寧に伝えていかなければいけません。しかし今年中学校の歴史教科書の検定に通った7冊の教科書のうち福田英子の紹介を載せているのはなんと一冊だけ、あの平塚雷鳥でさえ3冊だけだとか・・・・当時彼女の主張が[家族制度破壊」として攻撃をくわえられましたが、今その論調で男女平等教バッシングがこの教科書問題でもくりひろげられています。
あらためて今、彼女の生き方を伝えることにこだわる時代になってきていると思います。
私も彼女の「悪政に抗して社会の前進にその一生を投じた彼女の誇り高き生き方」をしっかりまなびたいと思います。